若者はいつも悩んでいる

若者はいつも悩んでいる

あなたと同じように悩む、最近の大学生のあたまのなか

かなしい

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テレビの先の無数の犠牲者には祈るのに、

この電車をとめた自殺者には舌打ちか。

 
この皮肉、心が痛いひとは少なからずいるんじゃないだろうか。
 
僕は昔、小林麻央さんが亡くなった時に同じことを思った。
 
 
 
僕たちは同情する人間を選ぶ。
目の前のホームレスを救おうとはしないが、何百キロも離れた外国に住む人々にを救おうとする。
 
僕たちが救うのは、救うべきひとではない。自分が救いたいひとだ。
 
十万円払って東南アジアに自分で趣き、孤児を救うのと、コンビニの募金箱に10万円入れるには何が違うのか。
 
偽善。
 
やらぬ善より、やる偽善とはよくいったものだ。
 
偽善しかない。都合のいいところにしか同情しない。
 
マンチェスターのテロで20名少しがなくなった。
パリのテロで、130人がなくなった。
911で3000人がなくなった。
 
先進国の人の死はどうやら重いようだ。
僕らは深い悲しみを覚えるから。
 
一方で、
 
先週、ソマリアのテロで300人が亡くなったのを知っているか。
 
pray for paris,は祈るのに、
pray for somalia を祈らないのはなぜか。
 
なぜTwitterハッシュタグマンチェスターはあって、なぜソマリアはないのか、
Facebookトリコロールのトプ画が流行ったのに、なぜソマリア国旗はないのか。
 
この記事を見て、僕も同じように憤った。
 

www.kantahara.com

 
 
テロの犠牲になった白人、ないしは先進国の人々の死はかわいそうだが
アフリカに住む人々の死は、南極のペンギンの雛の大量死ほどの同情しかしないのか。
 
テロは自然災害じゃない。
間違いなく人為的な災いだ。
にもかかわらず、にもかかわらず、こうも報道の注目の度合いが違うのはなぜか。
メディアにとって金にならないからか。

注目度=命の価値ではないが、それにしてもこれはひどすぎないか。 

 

、という論点ずれまくりの感情論。

 

 

特定の悲しみだけを切り取るのは間違っているのか。

311以降、毎年同日に曲をアップしていた野田洋次郎は、2016年の3月11日に「春灯」という曲を発表した時にアップしたこんなことを言っていた。
 
来年以降も曲を作るかはわかりません。当たり前にやるかもしれません。ただ3月11日の、あの悲しみだけを切り取って一つの作品を作ることに少しずつ、違和感が生まれてきました。どの楽曲にも、含まれているように思うからです。逆にこの5年の間にも悲惨な事件、事故、大きな喜び、様々ありました。そしてそれらに常に影響されながら音楽を作っています。すべて混ざり合って「今」を生きている自分の音楽になっています。
 
 
 
あの悲しみだけを切り取ることに対する違和感、
つまり特定の悲しみだけを切り取ることへの偽善性。僕はそう解釈した(誤読かもしれないが。)
 
 
 
 
作陶した、支離滅裂な文章になってしまった。
メディア批判がしたいのか、国際協力の「そもそもの偽善性」を言いたいのか自分でもよくわからない。
 
 
自分で散々文句を言っておいて、全く説得力のないことだが
僕はカンボジアでトゥール・スレン博物館とキリングフィールドにいったとき、こう思った。
 
「この世の全ての悲しみを背負うには、あまりにも自分は小さすぎる。だから自分が生きていくなかで、出会った悲しみくらいは、抱きしめて、忘れないように、繰り返さぬように、生きていこう」と。
 
 
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僕たちは、世界中の悲しみの中から、悲しみたい悲劇を切り取り、悲しむ。
かなしくも、そういう生き物なのかもしれない。
 
いや、そうやってしか、生きていけないのかもしれない。
 
かなしい。
 
以上。
 
では。
 
 

※"テレビの先の無数の犠牲者には祈るのに、この電車をとめた自殺者には舌打ちか"amazarashi『メーデー』の歌詞より引用。

 

世界収束二一一六

世界収束二一一六